2014年 03月 11日
生きててくれてありがとう
3年前のあの日の記憶がすっぽりと抜けている部分があります。
仕事で名古屋の職場におりました。
仕事場は1階で、うわ〜〜〜〜〜〜んんゆら〜〜〜〜〜〜〜〜ん
長い時間揺れました。
いつもの目眩なのかと思ったくらいです。
その後の記憶が正直ありません。。。
記憶が戻るのは、
釜石の叔父を捜す為に、Twitterやmixiで呼びかけ、
情報を収集する事に集中している所からです。
釜石の全く変わってしまった様子や、
叔父との連絡が取れない父の憔悴しきった様子、
実際の情況が解り始めた頃です。
何日も経って、
やっと叔父と連絡が取れました。
叔父の当時の手紙を公開させて頂きます。
≪注≫は、私が入れました。
3月11日午後2時46分、私はのぞみ病院(旧市民病院)でパソコン講習会をやっておりましたら、突然ぐらぐらと机が動き始め、パソコンを落さないよう抱きながら、この建物が崩壊しないことを祈り、30秒ほどへばりついていましたが、とても揺れが収まらないので、壁際に行って壁に30度くらいの角度で手を突いて立っておりました。
やがて揺れが収まったので、急いでパソコンをしまい、2階の生活応援センターというところに行って、情報をテレビで見てました。
やがて、テレビが高架橋下の状況を映し出し、これはものすごい津波になるぞということで、9階屋上から市街地を見てましたらもう病院の下まで水が流れ込んできました。
病院の隣は「藤勇醸造」ですが、そこから人が駆け出してきて必死に病院のフェンスを登り始めたので、3階に下り、数人で、女性一人男性二人をフェンスの中に引き込みました。
そのうち、病院の前の木に3人登っているというので、看護婦さんたちと病院職員5-6人でシーツをつなぎ合わせて、応急のロープを作り、ズブヌレの人を玄関の屋根から引き揚げ助けました。
停電になり、一晩病院の椅子で過ごしましたが、病院はただちに野戦病院体制を敷いて、運ばれてくる患者の治療体制をとったのはさすがでした。
4階以上には入院患者がおりましたが、みな停電のなかじっと耐えて朝を待ちました。
私は病院の中におりましたので助かりましたが、2階生活応援センターで一緒にいた人の中で、外に出て行った方々は亡くなりました。
その後は電話なし、電気なし、水道なし、都市ガスなし、といった生活が続きました。
翌日、午前6時半に病院を出て、大平≪注:おおだいら≫に着いたのは、午前10時でした。≪注:通常は、1時間もあれば到着する距離≫誰もいない瓦礫の街をあるくということは、不気味なものです。
矢の浦橋を渡るときは、余震による小さな津波で、川が波立っているのを一人で渡るときはもう走りました。
ただの橋ではない状態で、いろいろなものが橋に引っ掛かっており、川が波立っているというのは本当に誰か助けてと云いたくなりそうでした。
それからが避難所生活の始まりです。
救援物資はすぐに配布になりません。その間、町内会の皆様の協力によって、米・みそ、などを持ち寄って、三度三度のご飯を提供してきました。3日目くらいから、自衛隊が食糧、灯油、ガソリン、その他の物資を届けてくれるようになり、集会所の中は、救援物資の山となりました。
夜はローソクの灯りと、ストーブの灯りで、午後7時から朝6時までお休みの時間としました。
11時間も寝たことがないので、途中で何回もトイレに起きだしました。
5日目にやっと電気がきました。その時はみんなでパチパチと手をたたいて喜びました。
下水処理場が津波にやられ、施設を消毒つ掃除をするため、給水は止められているようで、今日現在≪注:3月30日≫も水は来ていません。
自衛隊が、午前午後と給水にきます。津波被害は、大渡り橋から東側で、五の端以西の住宅は何の被害もないので、鈴子を境に環境が一変します。そのほか、新幹線はまだとおていませんし、釜石線も動いていません。電話も固定電話はダメですし、ソフトバンクの携帯はまだ通じないといってます。
そのほか、被災された方を、いつまでも避難所においておけないということで、内陸部の温泉や旅館に一時避難ということで、1か月ほど移転させる計画で、城山小学校体育館にいた避難者から20名ほどが、移転して行きました。
このように、釜石は徐々に落ち着きを取り戻してきております。
この騒ぎが収まれば、今度は復興計画が始まります。
騒ぎが収まったら、旅行にも出られますので、それまでは我慢我慢の生活です。連絡も取れず、みなさんには心配をかけ通しましたが、何とか生きてますのでご安心願います。
やはり、人間最後になりますと、連絡は徒歩、手紙は遅くてもちゃんと通じます。まずは生きてる証の手紙です。
当時77歳の叔父が、
釜石で生まれ、
第二次大戦中に弟(私の父ですね)を連れて疎開し
終戦後は兄を亡くし。
その後も釜石で育ち、
大学卒業後は釜石に戻り、
釜石で公務員となり、
戦後の釜石を作った人が、
どんな思いで、この恐ろしい顔を見せた釜石を見たのだろう。。。
叔父が、叔父を助けてくれて本当に本当に良かった。
叔父は、地震の直前、家電量販店によった所までは解ったのですが
そこは、誰一人生き残った人の居ない店舗でした。
それが解った時、兄も私も父に言えませんでした。
もし、地震がもう少し早かったら?
もし、叔父がPC教室に行っていなかったら?
もし、地震のあとすぐ自宅に戻ろうとしていたら?
叔父が、生きててくれてよかった。
父があんなに小さく見えた事は無かったです。
叔父が助かったようだと知ったときの父の安心した顔も。。。
生き残ってしまったと思っている人に伝えたい。
あなたを守ってくれてありがとう。
あなたを助けてくれてありがとう。
あんなに大変な怖いものから、
大切なあなたを必死で助けてくれてありがとう。
会える人には、今、会おう。
大事な人を今、抱きしめよう。
一人っきりしかいない自分を、誇りにしよう。
3.11に寄せて。。。
今、叔父は、釜石の再生の最前線で現役状態だそうです。
柔らかな話し言葉と裏腹に、頼もしい、かっこいい自慢の叔父です。
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仕事で名古屋の職場におりました。
仕事場は1階で、うわ〜〜〜〜〜〜んんゆら〜〜〜〜〜〜〜〜ん
長い時間揺れました。
いつもの目眩なのかと思ったくらいです。
その後の記憶が正直ありません。。。
記憶が戻るのは、
釜石の叔父を捜す為に、Twitterやmixiで呼びかけ、
情報を収集する事に集中している所からです。
釜石の全く変わってしまった様子や、
叔父との連絡が取れない父の憔悴しきった様子、
実際の情況が解り始めた頃です。
何日も経って、
やっと叔父と連絡が取れました。
叔父の当時の手紙を公開させて頂きます。
≪注≫は、私が入れました。
3月11日午後2時46分、私はのぞみ病院(旧市民病院)でパソコン講習会をやっておりましたら、突然ぐらぐらと机が動き始め、パソコンを落さないよう抱きながら、この建物が崩壊しないことを祈り、30秒ほどへばりついていましたが、とても揺れが収まらないので、壁際に行って壁に30度くらいの角度で手を突いて立っておりました。
やがて揺れが収まったので、急いでパソコンをしまい、2階の生活応援センターというところに行って、情報をテレビで見てました。
やがて、テレビが高架橋下の状況を映し出し、これはものすごい津波になるぞということで、9階屋上から市街地を見てましたらもう病院の下まで水が流れ込んできました。
病院の隣は「藤勇醸造」ですが、そこから人が駆け出してきて必死に病院のフェンスを登り始めたので、3階に下り、数人で、女性一人男性二人をフェンスの中に引き込みました。
そのうち、病院の前の木に3人登っているというので、看護婦さんたちと病院職員5-6人でシーツをつなぎ合わせて、応急のロープを作り、ズブヌレの人を玄関の屋根から引き揚げ助けました。
停電になり、一晩病院の椅子で過ごしましたが、病院はただちに野戦病院体制を敷いて、運ばれてくる患者の治療体制をとったのはさすがでした。
4階以上には入院患者がおりましたが、みな停電のなかじっと耐えて朝を待ちました。
私は病院の中におりましたので助かりましたが、2階生活応援センターで一緒にいた人の中で、外に出て行った方々は亡くなりました。
その後は電話なし、電気なし、水道なし、都市ガスなし、といった生活が続きました。
翌日、午前6時半に病院を出て、大平≪注:おおだいら≫に着いたのは、午前10時でした。≪注:通常は、1時間もあれば到着する距離≫誰もいない瓦礫の街をあるくということは、不気味なものです。
矢の浦橋を渡るときは、余震による小さな津波で、川が波立っているのを一人で渡るときはもう走りました。
ただの橋ではない状態で、いろいろなものが橋に引っ掛かっており、川が波立っているというのは本当に誰か助けてと云いたくなりそうでした。
それからが避難所生活の始まりです。
救援物資はすぐに配布になりません。その間、町内会の皆様の協力によって、米・みそ、などを持ち寄って、三度三度のご飯を提供してきました。3日目くらいから、自衛隊が食糧、灯油、ガソリン、その他の物資を届けてくれるようになり、集会所の中は、救援物資の山となりました。
夜はローソクの灯りと、ストーブの灯りで、午後7時から朝6時までお休みの時間としました。
11時間も寝たことがないので、途中で何回もトイレに起きだしました。
5日目にやっと電気がきました。その時はみんなでパチパチと手をたたいて喜びました。
下水処理場が津波にやられ、施設を消毒つ掃除をするため、給水は止められているようで、今日現在≪注:3月30日≫も水は来ていません。
自衛隊が、午前午後と給水にきます。津波被害は、大渡り橋から東側で、五の端以西の住宅は何の被害もないので、鈴子を境に環境が一変します。そのほか、新幹線はまだとおていませんし、釜石線も動いていません。電話も固定電話はダメですし、ソフトバンクの携帯はまだ通じないといってます。
そのほか、被災された方を、いつまでも避難所においておけないということで、内陸部の温泉や旅館に一時避難ということで、1か月ほど移転させる計画で、城山小学校体育館にいた避難者から20名ほどが、移転して行きました。
このように、釜石は徐々に落ち着きを取り戻してきております。
この騒ぎが収まれば、今度は復興計画が始まります。
騒ぎが収まったら、旅行にも出られますので、それまでは我慢我慢の生活です。連絡も取れず、みなさんには心配をかけ通しましたが、何とか生きてますのでご安心願います。
やはり、人間最後になりますと、連絡は徒歩、手紙は遅くてもちゃんと通じます。まずは生きてる証の手紙です。
当時77歳の叔父が、
釜石で生まれ、
第二次大戦中に弟(私の父ですね)を連れて疎開し
終戦後は兄を亡くし。
その後も釜石で育ち、
大学卒業後は釜石に戻り、
釜石で公務員となり、
戦後の釜石を作った人が、
どんな思いで、この恐ろしい顔を見せた釜石を見たのだろう。。。
叔父が、叔父を助けてくれて本当に本当に良かった。
叔父は、地震の直前、家電量販店によった所までは解ったのですが
そこは、誰一人生き残った人の居ない店舗でした。
それが解った時、兄も私も父に言えませんでした。
もし、地震がもう少し早かったら?
もし、叔父がPC教室に行っていなかったら?
もし、地震のあとすぐ自宅に戻ろうとしていたら?
叔父が、生きててくれてよかった。
父があんなに小さく見えた事は無かったです。
叔父が助かったようだと知ったときの父の安心した顔も。。。
生き残ってしまったと思っている人に伝えたい。
あなたを守ってくれてありがとう。
あなたを助けてくれてありがとう。
あんなに大変な怖いものから、
大切なあなたを必死で助けてくれてありがとう。
会える人には、今、会おう。
大事な人を今、抱きしめよう。
一人っきりしかいない自分を、誇りにしよう。
3.11に寄せて。。。
今、叔父は、釜石の再生の最前線で現役状態だそうです。
柔らかな話し言葉と裏腹に、頼もしい、かっこいい自慢の叔父です。
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by yasuko6866
| 2014-03-11 18:42